藤十郎襲名・歌舞伎座昼の部

kenboutei2006-01-22

『鶴寿千歳』梅玉時蔵。初春にふさわしい、目出たい踊り。
『夕霧名残の正月』台本も残っていない初代藤十郎の夕霧狂言の復活。基本的には「吉田屋」と、これまでの近松座での復活物をなぞっているだけの、たわいのないものだが、役者を魅せることが目的の舞台としては、これで充分。
能舞台風の橋がかりから出てきた伊左衛門・藤十郎が、花道へ向かい七三で止まる。その藤十郎の美しさは、昨年の鴈治郎として最後の「河庄」治兵衛に匹敵、いや、それすら凌駕するかもしれない。何気ない動きに気品を備えた美しさがある。
雀右衛門は、打掛けの背後から、すーっと出てくる。夕霧の亡霊としての儚さが、よく表れている。藤十郎とのやりとりの中で、だんだん生気が出てきて、これもわずかな動きしか見せないにもかかわらず、その幽かな、繊細な動きの一つ一つに、優美で馥郁とした香りが漂ってきた。
そして、藤十郎雀右衛門が、常磐津の詞章「♫〜月の影」で、二人一緒に月を見上げた時の、その表情と形。美しいものを観た時の恍惚感のようなものを感じた。
かつて、雀右衛門富十郎がフランスに『二人椀久』を持って行った時、ル・モンド紙が、「歌舞伎の若き永遠の神々」と絶賛したそうだが、その表現を、自分は今日の藤十郎雀右衛門のこの舞台に捧げたい。
ちょうど、月を見上げる場面の写真が売店で販売されていたので、歌舞伎座に通いだして初めて買ってしまった。(しかし、実際の美しさは、この写真でも表現しきれていない。)
昼夜通じて一番の舞台。
『奥州安達原』やはり「袖萩祭文」は眠ってしまう。しかし、これまで自分が観た、国立での吉右衛門歌舞伎座での猿之助などと違うのは、後半の貞任、宗任の面白さである。吉右衛門の大きさはもちろん良いのだが、歌昇の宗任の赤っ面が、締まりがあって非常に良かった。丸本物の糸に乗る気持ち良さを二人に感じた。
福助の袖萩は、始終喚き続けてうるさい。子役の方が、歌舞伎らしさがあった。
段四郎、吉之丞が安定。
『万才』福助扇雀。初春にふさわしい、目出たい踊り。って、さっきも同じことを記述したような・・・。
曽根崎心中藤十郎襲名披露としては、こちらがメインなんだろうが・・・。芝居としては既に手慣れたものなので、場面転換のスムーズさも含めて、全く破綻がない。藤十郎の若々しさと生き生きとした動きは驚嘆するしかないのだが、それを受け止めている、翫雀も、充分立派だった。以前観たのがいつだったか忘れたが、その時よりもずっと成長している。
文楽と異なり、九平次が最後にやり込められるのは、観客心理・役者心理としては仕方ないのかもしれないが、このまま行くと、数年後、お初と徳兵衛が心中直前に助けられる、なんて話に変えられやしないかと、心配もしてしまう。(近松の美しい文章があるので、そんなことはないとも思うけど。)
我當の久右衛門に味わい。歩き方が父・先代仁左衛門と同じだ。