12月歌舞伎座昼の部

kenboutei2005-12-18

寒風の中、自転車で歌舞伎座へ。(寒かった!)
『弁慶上使』羽左衛門芝翫でやっていた頃は、この馬鹿馬鹿しい狂言も、それなりに面白く観れていたのだが、橋之助福助コンビは、共に芝居が生々しいので、「娘を殺されていながら、弁慶にシナを作っている場合か」などとつっこみを入れたくなる。弁慶の大泣きも、ただ大声で喚いているだけにしか見えない。要するに義太夫味に欠けるわけなのだが、こういう荒唐無稽の芝居を役者の味で納得させられる機会は、もうないのかもしれない。(一度、勘三郎のおわさは観てみたい)
『猩々、三社祭昼の部で一番面白かった。勘太郎七之助の小気味良い踊り。「猩々」では、瓶の周りをうろうろする動作が、動物が人間の置いた餌に警戒しながら近づく様にも似ていて、うまいものだと感心した。「三社祭」も、手慣れた、といっていい程、自信に漲り、観ているこちらも清々しい気分になる。歌舞伎座の舞台が決して不似合いでなく、今後、この兄弟の踊りが「勘九郎・八十助」に匹敵する呼び物になると、確信した。勘太郎の踊りに一日の長。
『盲目物語』前回初めて観た時にも思ったのだが、弥市と秀吉は、何も一人二役で演じる必要はない。というのも、今の勘三郎の場合、弥市も秀吉も、同じ色の芝居になっており、この二人の対象の妙がまるで感じられないのである。秀吉も元は足軽の身であり、按摩の弥市との身分の違いを皮肉るには、同じ役者でやるのにもそれなりに意味はあるのだろうが、結果として、二役ともあまり変わらない印象を抱いてしまい、芝居としてはむしろつまらなくなっている。これは、特に秀吉の方の造形に問題があると思うのだが、例えば、秀吉を三津五郎あたりにやらせると、この芝居にも更に奥行きが出てくるのではないだろうか。一人二役は先代勘三郎のアイデアだそうで、息子としてはその演出に拘るのはわかるが、個人的には当代には弥市一役に集中してほしい。
一方、お市淀君は、今回は玉三郎七之助に分けて演じられ、本来はこれが原作通りであるのだが、感想としては、前回の玉三郎二役の方が面白かった。
芝居というのは難しい。
勘三郎玉三郎の連れ弾きが、心に沁み入った。