十月歌舞伎座夜の部

kenboutei2005-10-23

『引窓』菊五郎劇団による「引窓」。極めて世話っぽい。世話すぎる。菊五郎の南与兵衛は、最初の出から町人で、町人が武士になったおかしさを強調。「両腰なれば・・・」のところまでいく前に、武士から町人への切り替えを見せてしまうので、全体的に緊張感がなく、喜劇調となる。左團次の濡髪も、見た目は立派だが、台詞や動きが世話に走るため、これも人を殺して逃げてきた悲壮感がどこにもない。田之助のお幸は名品なので、かなり期待して観ていたのだが、段々と腹が立ってきた。わかりやすいといえばわかりやすいが、はっきり言って、クサいのだ。筋書によると、菊五郎は初役の時、又五郎から播磨屋型を習ったとのことだが、これがそうなのか?もっとも、今回は気分一新、初役のつもりでやるとも書いてあったので、大分アレンジしているのかもしれない。できればそう願いたい。これが初代吉右衛門のやり方だとすると、あまりに悲しい。
田之助の他、魁春のお早が、とても廓勤めをしていたとは思えないものの、行儀の良い芝居で、少し救われた。
日高川玉三郎の人形振り。形の美しさを含め、見応えがあった。ガブ人形や般若の面をつけたりして、視覚的にも面白い一幕。人形遣い菊之助だったが、人形の玉三郎と一緒に座ったり立ったりするので、あまり人形を遣っているようには見えなかった。菊之助や薪車には気の毒だが、玉三郎の独り舞台でも十分であった。
『河庄』鴈治郎の、花道の出の七三、つまずいて草履が脱げ、すっと立って客席の方に顔を向けた時の、その美しさ。これまで何度か鴈治郎の治兵衛は観ているが、今日の美しさは、神々しいとさえ感じた。鴈治郎はこんなに美しかったのだ。雀右衛門の美しさと並ぶ、歌舞伎の奇跡と言っては、大袈裟か。
しかしながら、小春を勤める雀右衛門は休演で、翫雀が代役。無難ではあったが、小春の辛抱と悲哀感は伝わってこない。
我當の孫右衛門は、町人が武士に化けていることを、過度なぎこちなさで表現していたが、あまりにも底の浅い演技で、かえって白けてしまった。(菊五郎の南与兵衛の造形にも言えることだが、観客へのわかりやすさを履き違えているような気がしてならない。)

というわけで、ひたすら鴈治郎の演技だけに注目する観劇となった次第。
壱太郎の丁稚が不思議な味わいあり。
・・・何だか、歌舞伎の芝居が薄っぺらに思えた一日だった。
寺島しのぶが、普通にイヤホン・ガイド片手に観劇していた。