『演劇界』の座談会

昨日買った『演劇界』に、「歌舞伎の新展開と劇評の現在」というテーマでの座談会が、唐突に掲載されていた。出席者は、串田和美、松岡和子、上村以和於、長谷部浩児玉竜一の5名、司会・構成が伊達なつめ。
最近のコクーン歌舞伎平成中村座、野田版研辰、蜷川十二夜と、歌舞伎と現代劇の交流が盛んとなっている新しい流れをどう捉え、評価するのかを議論しようというものだったが、ただ一人制作者側の立場で参加した串田和美と他の劇評家との意見がなかなか噛み合ず、散漫とした印象の座談会であった。また、「歌舞伎の評論家」と「現代劇の評論家」との間の、どうしようもない溝のようなものも感じてしまった。
実はこの座談会については、参加者の一人の講義で事前に知っており、その時、その参加者は、「歌舞伎を文楽のような伝統保存芸にしてはいけない、という意見があり、周りもそうだそうだ、という雰囲気だった」とやや憤慨して紹介していた。その後すっかり忘れていたのだが、ああ、これがそうだったのかと思い出した次第。(そういう発言も確かに載っていた。多分、今の文楽のことなど知らないんだろうなあ。)
内容的には物足りない座談会であったが、興味深かったのは、この企画が、あの「勘三郎・『演劇界』抗争」によるものであったということ。座談会の中で伊達なつめが説明していたが、やはり勘三郎はかつてのコクーン歌舞伎での劇評を端に、カラー写真の掲載と取材を拒否していた。その後、協議を重ねて、「劇評家と創り手側との公開討論の場を誌上に設けること」で和解が成立したという。(その結果が、先々月号の勘三郎カラー写真解禁だったわけだ。)
ただ、『演劇界』側は、これを個人的な争いにしたくないということで、上記のようなテーマを設定して、(いわば「薄めて」)実施したということであった。更に、参加者の串田和美が言っていたが、当初は、(コクーン劇評当事者の)天野道映や、「野田君たち」(by串田)が参加するはずだったが、都合がつかず、このメンバーになったとのこと。串田和美の終始居心地の悪そうな発言は、そういうことからのものであったようだ。
この座談会では、今の劇評の持つ力が低下しているとの話もあったが、まあ、これだけネットが発達して、色々な情報が発信されている状況では、それは当然のことだろう。ただ、ネットの重要性に言及していたのは児玉竜一だけだが、彼にしても、「残る批評は紙媒体」という認識だった。
個人的には、もはや『演劇界』に載るような批評にどれだけの価値があるのかと思っている。即時性は既になく、舞台の正確な紹介は、映像媒体に適わない。そして、読み手が一番知りたがっている、「良かったの?悪かったの?」という即物的興味は、元々それを避けた独特の書き方をしているのが殆どである。渡辺保はすでにネットに劇評の場を移し(もっとも、その後まとめて出版するわけだが)、掲示板やブログは、それなりに舞台の雰囲気を伝えてくれる。歌舞伎に関して言えば、「型」の扱い方なんかは、もっと知りたいところだが、既にそんな気の利いたことを書いてくれるのは、渡辺保くらいしかなく、更にもっときちんと知るためには、専門書が必要だ。
もし、後世の研究家が、今の歌舞伎の状況を知ろうとした場合、それは、専門雑誌の批評以上に、ネット上の夥しい「感想」を頼りにするのではないだろうか。自分もそうだが、毎月の芝居を観に行く前後には、色々なブログや掲示板を覗いている。感じ方は人それぞれなので、それを鵜呑みにするわけではないが、だいたいの雰囲気はわかるもので、それは多くの情報に当たれば当たるほど、最大公約数的に妥当な「評判記」になっていく。
だから、このネット上の不特定な書き込みを、毎日丹念に拾っていけば、その月の歌舞伎の貴重な記録になるのは間違いない。それこそ、「今日は○○がとちった」とか、「○○はまだ台詞が入っていない」などという情報までも得られるのは、ネットだけなのだ。座談会の出席者は、「ネットは一過性のもの」という認識しかなかったようだが、もはや決してそんなことはないわけで、是非、誰かがこの作業に着手してほしい。(実は、以前から思っていたことで、トラックバックはてなのアンテナ機能なんかをもう少し工夫すれば、「歌舞伎座○年○月記録」みたいにまとめられると思うのだが。誰か本当にやってくれないかな。歌舞伎に限らず、映画や他の芝居なんかも同じニーズはあるだろうし。)
そもそも、殆ど歌舞伎しか取り上げていないのに「演劇界」という名前で売っている雑誌で、「歌舞伎(批評)と現代劇(批評)の境界」みたいなことを議論していること自体が、何となく滑稽に思える、今回の座談会であった。(先月の志野葉太郎と山川静夫の対談の方が何倍も面白かった。)
勘三郎が、この企画の結果に不満で、またカラー写真を掲載拒否、なんてことにならないことだけを、切に願う。