『レスラー』

kenboutei2009-06-30

日比谷シャンテ
80年代に活躍し、スーパースターになったプロレスラーが、その20年後も過去の名声を頼りに細々と試合を続けている。家族とは別れ、トレーラーハウスの家賃も払えず車で眠るような孤独の日々、身体もボロボロだが、リングに立つことだけが全て。刺激的なデスマッチスタイルもこなすが、ある日、心臓発作で倒れ、バイパス手術を受けたことで、引退を決意。別れた娘と一時は和解するものの、ふとしたことで再び一人となり、リングへの復帰を決意。過去の伝説的な試合のリマッチに挑む。
スーパースター、ランディ“ザ・ラム”ロビンソンの、典型的な破滅型レスラーの生き様をたっぷりと描く。
それは、我々が知っている、過去のレスラーの象徴である。
テリー、ホーガン、ブロディ、マードック、ハンセン、デビアス・・・。80年代に活躍した輝かしいレスラー達も、その陰には、どこか寂しく悲しげな佇まいがあった。
或いは、大仁田、冬木、子鹿、R木村・・・。日本のレスラーにしても同じだ。自分の身体を切り刻み、限界を越えても、リングに上がらざるを得なかった男たちの、悲しい性。(美容院で髪を染め、日焼けサロンに通うランディの姿に、なぎら健壱の名曲『男は馬之助』を思い出した。)
もちろん、トップロープから必殺技の「ラム・ジャック」を決めに行くラスト・ショットは、つい先日リングで死んだ三沢をイヤでも思い出させる。(両肘を突き出して誇示するポーズが、また悲しいのだ。)
プロレスラーとは、こういう生き物であるということを、ハンディ・カメラが捉える不安定なショットが、まるでドキュメンタリーを観るように、まざまざと暴いていく。そしてそれは、その生き様を観ている自分自身が、何故プロレスの魅力に惹かれるのかも、明らかにしているようでもあった。
孤独なランディは、ストリッパーのキャシディに心を寄せる。プロレスもストリップも、客を興奮させる一種のエンターテインメントであり、ショー・ビジネスである。しかし、仕事と実生活に一線を画し、一人息子を養うためだけに、客の前で裸になるキャシディと、家族を顧みず、リングだけに現実を求めるランディとは、結局、違う世界の住人だったのである。或いはそれは、女と男の違いなのかもしれない。
家族や友人と決別し、自分の死に場所を自分で決める男の最後を描くという点で、先日観た『グラン・トリノ』にも通じる、男の映画であった。
ランディ役のミッキー・ロークが見事。彼自身の生き様もこの映画はなぞっているようで、ランディとミッキーは完全に一体であった。
キャシディ役のマリサ・トメイは、どこかで見た顔だったが、上映中は思い出せず、後で調べると、『踊るマハラジャ★NYに行く』に出ていた女性だった。
エンディングに流れる、ブルース・スプリングスティーンがタダで提供したという楽曲も、とても素敵。これも、『グラン・トリノ』のイーストウッドの歌声の余韻を思い出させる。
それにしても、試合前に対戦相手とアングルを話し合ったり、小さく折り畳んだ剃刀を手首のテープに隠す場面などは、今となっては何とも思わないが、80年代当時だったら大騒ぎになっただろうな。