10月国立劇場・『大老』

kenboutei2008-10-26

国立劇場の十月歌舞伎公演は、北條秀司の十三回忌追善として、大老
10日程前に、チケットは予約、その時はあと数席程度しか残っていなかったのだが、今日来てみると、1階でも結構空席があった。いつも以上に高齢者が目立ち、加齢臭漂う場内。
北條秀司の十三回忌とのことでの演目だが、本当のところは、NHK大河ドラマの『篤姫』人気を当て込んだ、便乗企画のような気がする。(便乗は、興行の世界では当然のことだろうが、それを国立がやるのは、どうなのかねえ。)
お馴染みの『井伊大老』をさらに脹らませ、井伊直弼彦根藩時代から日米条約締結、大獄、暗殺までを、尊王攘夷派(特に水戸藩)との対立を軸に描く大作。
一般的には悪いイメージの井伊直弼を、時代の変革期に大局的な見地で信念を貫いた人物として捉え直す。それはそれでわからないではないが、結局は、悩める権力者側に擦り寄った作り方なので、例えば、歌舞伎好きだった、前の前のそのまた前の総理大臣(ややこしい)だったら、すぐ飛びつきそうで、その上、それをうまく時の政局に利用してしまうのが容易に想像でき、ちょっと白けてしまう感じもあった。(今の総理は、漫画と夜の飲み会しか興味がなさそうなので、そんな心配も無用だろうが。)
吉右衛門井伊直弼魁春のお静の方、段四郎の仙英禅師、梅玉長野主膳
第一幕の「埋木舎」がなかなか良い。お静の方との質素だが充実した日々。直弼自身が豆腐を買いに行くエピソードで、二人の飾り気のない仲睦まじさをうまく表現するとともに、出世したその後でも、繰り返し思い起こされる一場面として、見事な伏線となっている。ここが良いから、いつも上演される「雛祭り」が一層、しんみりと来るのである。この辺が北條秀司のうまさだろう。
吉右衛門は、実に立派な井伊直弼。特に今日は、顔の大きさに驚いた。よく舞台役者は顔が大きいのが良いとされ、吉右衛門の父・白鸚などは、人の倍くらいありそうな顔の大きさが、讃えられていたようだが、吉右衛門は、身体も大きい分、今まではそれほど顔が大きいとは感じなかったのだが、今日は、ふっと舞台中央に直立している時でも、顔の大きさを感じた。
佇まいだけで他を圧する程の大きさを感じさせる、そんな吉右衛門。それが、終幕の暗殺の場で、最も活かされた。
主人公が殺されて終わってしまうというのは、芝居としてはかなり難しいエンディングだと思う。吉右衛門の直弼は、水戸藩士に突き刺され、籠から出た後、その籠を背にして、正面に立ち身の姿勢となって、幕となる。
その偉容、まことに大きく、こんな形で幕をきれるのは、今の役者では吉右衛門以外いないであろう。「大播磨!」の大向こうがあったのも、納得の感があった。
梅玉の主膳は、安政の大獄の首謀者として、極めて冷酷無慈悲なイメージで役作りをしているようだが、全く魂の入っていないような、無機質な台詞廻しは、完全に逆効果だったと思う。もともと梅玉の台詞の抑揚は、感情のない冷たい感じなのだが、今日の主膳は、あえてそうしているところがわかるので(吉右衛門の直弼に、「お前も苦しかっただろう」と言われ、思わず嗚咽を伴った「はい」と返事をした梅玉である。感情を込めた台詞術もできないわけではない。)、これは役作りの錯誤としか思えなかった。(おそらくこの役は、三津五郎にやらせるのが一番だったと思う。)
魁春のお静の方は、やはり「埋木舎」が一番。「雛祭り」も悪くはないが、禅師を相手の長台詞になると、いつものイントネーションのおかしさが露呈する。
段四郎の禅師が見事。顔に丸味もでてきて、味わいが一層深まってきた感じ。もう一役の方はたいしたことはない。
歌六も二役だったが、水戸斉昭の方が立派。
芝雀の昌子の方は、おぼこ風なところが良い。
条約調印後の井伊邸でのアメリカ人歓迎パーティーの場で、昌子の方が、能舞台で歌舞伎の娘道成寺を踊るが、何かの間違いだろう。
・・・随分と無駄なことを書いてきたが、本当はそれほど面白くはなかった。もともとこの手の芝居はあまり好きではない。
こんな話だったら、今夜の『篤姫』の方がよっぽど面白かった。(特に今日の堀北真希の美しさは、筆舌に尽くし難い。初登場時は、公家風の鬘も似合わず、随分野暮っぽかったのだが、回を重ねる毎に美しくなっていくのには、本当に驚かされる。身内の死や篤姫への反応に、いちいち目を潤ませ、過剰に驚愕しながら崩れ落ちるのも、面白い。よろめき皇女。宮崎あおい目当てのドラマだったが、ちょっと目的が変わりそうだ。)