九月新橋演舞場 昼夜通し

kenboutei2008-09-07

おそらく当初の計画では、今頃歌舞伎座は取り壊されているはずだったので、松竹は様々な劇場を歌舞伎用に押さえていたのだろう。そうとでも邪推しなければ、最近の歌舞伎座以外の公演増は考えられず、おかげで金も時間もかかってしょうがないのだが、それでも、結果としてちょっと面白い座組での面白い舞台があれば、すぐに得した気分になるのだから、ファンとは単純なものである。(とはいえ、いくら単純な自分でも、赤坂と三越までは行く気になれないが。)
今日の新橋演舞場を、昼夜通しで観た直後の気持ちは、そんな感じ。
(そういえば、歌舞伎座の建替えも、ようやく本決まりになったとか。)
昼の部。
『源平布引滝』「義賢最期」、「竹生島遊覧」、「実盛物語」とまとめて上演。海老蔵出ずっぱり。
77年振りの「竹生島」はともかく、見取りでバラバラに出される段を、まとめて見せる試みは、大いに賛成。正月の『雷神不動北山櫻』もそういう企画であったが、これが海老蔵のアイデアだとしたら、なかなか憎いことをする。この他にも『義経腰越状』(「五斗三番」と「鉄砲場」)や『ひらかな盛衰記』(「源太勘当」、「逆櫓」)など、バラバラで観ているものを、(通しとまではいかなくとも)まとめて出してくれたら、ありがたい。
「義賢最期」は、実はそれほど好きな芝居ではない。派手な立ち廻りは一度見れば十分だし、歌舞伎では久しく絶えていたのを、戦後に復活したという経緯からも、どこか垢抜けしない田舎芝居の匂いがして、古典歌舞伎程の面白さに欠ける気がするのである。(これは、『蘭平物狂』にも感じることだが。)
今日も、話の展開や、髑髏で打擲する場面など、何だかクサいなあと思ってしまったのだが、海老蔵の義賢が、二重の屋台から降りて、平舞台の下手の戸口で、葵御前たちを逃がそうとしているところから、だんだん面白くなってきた。
そして、再び二重奥の襖から、最後の立ち廻りに登場してくる場面が凄かった。
襖が開けられると、海老蔵の義賢は、百日鬘を前に突き出し、頭を揺さぶる。まだ顔も見せない段階で、その迫力、大きさに圧倒された。この後は、血塗られた顔面での大立ち回り。見得をする時の、目の迫力。花道に行くと、ライトが目に入り、まさに眼光鋭い恐ろしさまで感じる。5月の知盛同様、理屈抜きで、海老蔵の格好良さを堪能できた。
竹生島遊覧」は、つまらなかった。結局、次の「実盛物語」で、実盛がこの場を語るので、余計無駄に思えた。77年間も上演されなかったのも、納得できる。
その「実盛物語」、海老蔵の実盛。新之助時代の平成15年に一度観ている。(当時の感想は一行しか書いていないが。)
すっきりとしていているが、それだけという感じもする。台詞廻しなどに、いつもの悪い癖がなかったのは良かった。
市蔵の瀬尾は、襲名以来。平馬返りをようやく観る。(襲名時は、うっかり気を失っていた。)
門之助の小万、葵御前に松也。新蔵が九郎助で奮闘。右之助の九郎助女房に味わい。太郎吉の子役が可愛かった。
芝居としては「実盛物語」だが、海老蔵を楽しむのは、「義賢最期」かな。
『枕獅子』『鏡獅子』の原曲ということで、一度くらいは観ているかと思っていたが、上演記録を観ると、初めてのようだ。
時蔵の傾城は、非常に良かった。真女形としての品格が漂っており、その上、どこか本物の年増の芸者を思わせるような、何とも言えない色気がある。煙管を男に渡す仕種など、最高である。
最後の毛振りも、古めかしくて良い。
この舞踊、もしかしたら、『鏡獅子』より、面白いかもしれない。(もっとも、時蔵の『鏡獅子』はまだ観ていないが。)
 
夜の部。
『加賀見山旧錦絵』時蔵の尾上、亀治郎のお初、海老蔵の岩藤。
やはり時蔵の尾上が立派。(歌右衛門が指導した、平成5年国立での初役は見逃しており、これが初見。)
草履での打擲後、花道揚幕から出て来る場面、これまで自分が観てきた尾上は、たいてい、完全に打ちひしがれ、すでに生きるエネルギーが残っていない感じなのだが(玉三郎を除く)、時蔵の尾上は、俯きながらとぼとぼと歩いていても、まだ中老としての誇りと、岩藤に対する無念の気持ちを維持しているように感じた。
それは、尾上の部屋でお初とやりとりする場面でも同じで、決して弱々しい尾上でなかったところが、良かった。
手の動きや顔の表情など、一瞬、歌右衛門に似ていた。
今月の新橋では、ある意味座頭的位置付けであり、昼の『枕獅子』といい、この『加賀見山』といい、非常に風格を感じる、時蔵であった。
亀治郎のお初は、前にやったのも観ているが、その時よりも、落ち着いた印象。もっとキャピキャピした感じを予想していたのだが、随分と冷静なお初であった。
海老蔵の岩藤とは、何だか怖いもの見たさのような感じであったが、案外サマになっていた。ただ、周囲に向かって「黙れ」と言うような時に、わざと立役の太い声に替えて言うのは、俳優祭での天地会のようで、いただけない。
『色彩間苅豆』海老蔵の与右衛門、亀治郎のかさね。
今月は、どの演目もなかなか良かったのだが、結果的には、この『かさね』が一番良かった。期待を大きく上回る出来栄えで、驚いた。
今日のこの舞台の最大の特徴は、若さである。
海老蔵亀治郎の若い二人が演じることで、与右衛門とかさねの物語が、若者の無軌道な愛憎殺人劇として、リアルに眼前に広がってきた。
最初の花道の出の、海老蔵の与右衛門のスピード。そしてそれを追いかけて出てくる、亀治郎のかさねのスピード。まるで、青春の逃避行のような、二人の若さに、まずは驚いた。
そして、悲しく絶望的な、海老蔵亀治郎への殺しっぷりに、圧倒されてしまった。これは攻める海老蔵の魅力もさることながら、受ける亀治郎のうまさもあったからだと思う。(何だか腐女子っぽい表現だな。)
特に凄かったのは、クライマックスの、連理引きでの、海老蔵の花道での動作。パントマイムとまではいかないが(そこまでやれば滑稽になるところだ)、見えない手に引っぱられる海老蔵の表現が激しくて、本当にかさねの怨念に引きずり込まれているような、迫真の演技になっていて、観ている自分も、この人は本当に取り憑かれたのではないかと、怖くなった程である。
これまでも何度かこの『かさね』は観ているが、歌舞伎独特のツケや太鼓の音に合わせて、結局は様式的な振りや動作に収斂するのが普通であるのに、海老蔵の与右衛門は、激しくリアルで、この舞台の場合、亀治郎という絶好の相方を得て、それが成功したのだと思う。
海老・亀、なかなか面白いコンビである。(当初は、海老蔵の与右衛門なら、相手は東京以外では実現している、菊之助玉三郎で観たいと思っていたのだが。)
そして、やはり、海老蔵の光る目だよなあ。あの目の光は、絶対に忘れられない。
これじゃあ人気も出るというものだ。