十二月歌舞伎座夜の部(半分だけ)

夜の部2回目の観劇。前回よりじっくり観ようと思っていたのだが・・・。
最初の寺子屋を観ているうちに、暗澹たる気持ちになった。
例えば福助の千代は、前回は気がつかなかったのだが、勘三郎海老蔵が芯で話している時にも、一人で演技をしている。
一子小太郎の首を討った時の様子を聴く度に、激しく反応し、顔を歪める。
戸浪が首のない小太郎の身体を抱きかかえてきた時も、見るに堪えないという表情で顔を背ける。
野辺の送りは、首を横に傾げてうなだれ、「子を失った母親」を身体全体で表現している。
もはや義太夫狂言の演じ方から遠く離れた、現代劇の俳優の演技なのであった。
そしてこれは、何も福助ばかりの傾向ではなく、この日の『寺子屋』全体に蔓延していた、現代劇病であると感じてしまったのである。
海老蔵の顔の演技然り、勘三郎の後半の泣き笑い然り。
こういう芝居でなければ今の観客には理解されないと考えて、そうしているのなら、もう自分にはついていけない。
そういう自分も、歌右衛門松緑白鸚らが全盛時の芝居を知っているわけではなく、平成からの歌舞伎ファンでしかないのに、それでも以前観た歌舞伎と今とでは、こうまで変質してしまったのかと、今日は呆然となって舞台を眺めていた。(まあ、平成ももう20年になるからなあ。)
海老蔵の花道の出の足さばきや、勘太郎の戸浪の台詞など、いくつか書き残したいことがあったのだが、そういうこともどうでもよくなった。
次の『粟餅』を気分転換の追い出しとして、『ふるあめりか』は、観ないで帰る。