納涼歌舞伎・第二部

kenboutei2007-08-26

二部は、肩の凝らない、軽喜劇二本。食事の心配もしなくて済み、気楽に観られるのは良いが、幕間の売店の混み具合は尋常ではなかった。
『ゆうれい貸屋』山本周五郎原作。幽霊が普通に出てきて、生きている人間と自然に会話しているのが面白い。ユーモア小説の味わい。幽霊に取り憑かれる、ぐうたらな桶職人に三津五郎。取り憑く辰巳芸者の幽霊が福助。幽霊を貸し出す商売を思いついた時、「派遣」という言葉を使ったのが今風だが、初演時はどうだったのだろう。
雇われ幽霊に、勘三郎七之助ら。勘三郎の「死んだらおしまいだ。生きていればこそだ」との述懐が味わい深い。
老人幽霊として出てくる権一の、鼻に抜けるフニャフニャな台詞廻しが、おかしい。
『新版舌切雀』渡辺えり子の新作。前回の『今昔桃太郎』に続き、またも昔話を題材にしているのは、作者の歌舞伎へのアプローチの苦悩を感じる。
幕開き、ひな壇に孔雀や鶴、梟、鷹などに扮した役者が並ぶ。黒澤明の映画『夢』の一シーンを思い出した。
展開の早さや会話のテンポは、まさに現代劇。観たことはないが、渡辺えり子主催の劇団の雰囲気とはこういうものか、と思う場面もいくつかあった。(例えば、森の賢者が小人姿で登場する場面など)
舌を切られた雀役に福助。人間界に行った時は、差し金で雀を操る黒衣として登場。顔は白い化粧のまま、黒衣で佇む姿に、妙な色気があった。
雀の舌を切るいじわる婆さんが、勘三郎。夫婦役の勘太郎七之助をアドリブまじりで責め立てるのは、内輪受けの感は強いが、勘三郎独特の持ち味。(時々、イメージが志村けんとダブってしまうが。)
三津五郎は、森の賢者の小人と、人間界の与太郎。最初に小人として登場した時は、しばらく三津五郎とは気がつかなかったほど、その台詞廻しがいつもの歌舞伎調から離れていた。
与太郎に扮する時は、顔と身体のバランスが子供っぽくなるよう、普段でも大きめの顔をさらに大きく見せるような、着付けの工夫をしていたようだ。『Dr.スランプ』のペンギン村に出てくる子供のようであった。
孔雀王の孝太郎、立役としての力強い台詞廻しが、意外にも宗十郎の声色になっていて、驚いた。
芝のぶ孔雀王の妃役の鶴。こういう役での美しさに、拍車がかかっている気がする。
怪優・亀蔵は、梟の役。声を聞かなければ誰だかわからない。
ドタバタとした喜劇の合間に、勘三郎三津五郎による三社祭の踊りを入れたのは、観客へのサービスというより、そうでもしなければ歌舞伎座の舞台での間が持たないからであろう。勘三郎の踊りが、あくまでいじわる婆さんの役として踊っているのはさすがであった。
踊りといえば、歌舞伎役者と邦楽でバレエの「白鳥の湖」を再現したのは、ちょっとした見ものであった。『浮かれ心中』のディズニー音楽と同じ趣向だが、琴の音色でクラシックを聞けたのは、面白かった。子供の坊主をペンギンに仕立てたのも、愛らしい。
勘三郎の婆は、大きな葛籠を奪って逃げ出す。花道辺りで、「葛籠背負ったが、おかしいか」と当然言うものだと思ったが、全くそんな台詞はなく、肩透かしであった。
この芝居でも、勘三郎の替え玉が登場し、二人一緒に出演する場面がある。『十二夜』でも思ったことだが、こういう無理はあまりしないでほしい。
ラストは、舞台で定式幕がしまると同時に、花道の勘三郎もスッポンから奈落へ消えて行く。こういう終わり方は初めて観る。せめて勘三郎だけは花道に残って、最後を飾るべきではなかったのか。それとも、千秋楽あたりに、カーテンコールで再びスッポンから登場しようとする計算なのだろうか。