二度目の歌舞伎座夜の部

kenboutei2005-12-25

『重の井』うとうとしながら観ていた。結局自分はこの芝居が好きではないのだと思う。最後に福助が言う、「姫君の、おたーち〜。」(←不正確)という台詞が、15日に観た時と違っていた。前回はまだ乳母の職分を弁えた言い方だったが、今日は声も甲高く、ほとんど泣きが入った母親としての言い方。前者の方が良いに決まっていると思うのだが、福助としては違うのだろう。
船弁慶松羽目物を更に能に近づけた玉三郎の新演出。前回初めて観た時は、その試みに面白さを感じたが、今日改めてじっくり見物すると、幾分首を傾げたくなる気分となった。まず、玉三郎自身が能を演ずる身体ではない。腰が高く、すり足もどこかおぼつかない。また、能にできるだけ近づけようとしても、三味線が入り、それに合わせて振りを付けると、どうにもちぐはぐ感を拭いきれない。能をやりたいのか、長唄で踊りたいのか、どっちなんだ、と言いたくなる。七代目團十郎が「勧進帳」を初演した時、能役者が観にきており、笑うのを堪えるため、思わず扇子で顔を隠したという話があったそうだが、オリジナル側から観た時の滑稽感みたいなものが、わかるような気がした。もっとも、「勧進帳」が今や立派な歌舞伎の名作となっているのだから、この玉三郎版「船弁慶」もいずれ名作になるのかもしれない・・・と書きつつ、即座に否定してしまいたくなるのは、この舞台が、「楊貴妃」や「鷺娘」同様、限りなく「玉三郎舞踊集」に近いものだからだと思う。多分他の誰にも真似できないというだけでなく、何と言うか、歌舞伎としての躍動感や開放感が決定的に欠けている。やはり「船弁慶」では、知盛が花道で顔を突き出し舌を出してくれなければ物足りない。歌舞伎っぽく観れたのは勘三郎の舟長だけだ。
こういう舞台を観ると、歌舞伎とは何かということまで考えさせられるのだが、まあ、歌舞伎役者はやはりオリジナルへのコンプレックスをどこかに持っている、ということなのかなあ。(とはいえ、こういう試みは非常に大事なことだとは思う。)
義経役の薪車が、漫才の酒井くにお・とおるの片方(向かって左?)に似ていると思った。
『松浦の太鼓』前回観た時とは違い、夜の部で一番良かった。何と言っても勘三郎の殿様が良くなっていた。相変わらず笑い方は「ぐふふふふ」とわざとらしく下品な感じがするが、「バカ、バカ、バカ」が前回は往年の小松政夫っぽかったのだが、今日は控え目で、喜劇とならずに済んだ。殿様としての佇まいも備わり、観客を集中させる本来の勘三郎の魅力が横溢していた。よって、気持ちよく、スカッと劇場を後にできた。
橋之助の顔が非常に立派になっていたのも喜ばしい。両国橋から頬被りして笹竹をかついで出てくる姿は、国貞が描く三代目菊五郎のようでもあった。
やはり芝居は生き物なのだと、改めて思う。