歌舞伎座初春大歌舞伎

kenboutei2005-01-23

今月は東京で歌舞伎が4つの劇場で8公演もかかっており、サラリーマンとしてはフォローが大変であった。土日の全てを歌舞伎見物に使えるわけでもなく、結局、演舞場も歌舞伎座も、昼・夜通しで観るしかなかった。(まあ、無為に過ごした休日もあるわけで、自業自得のところもあるが。それに、浅草の昼は結局観ていない。)観終わるとぐったりと疲れます。

昼の部。
意外によかった『操三番叟』。幕が上がり、書き割りの松羽目の舞台を観た時、すっかり忘れてしまった正月気分が蘇ってきた。黙って観ているだけで、目出たさが伝わってくる。特に、歌六と高麗蔵が姿形すっきりと美しく、気持ちよい。染五郎も軽快な動きで面白かったが、三番叟というよりピエロに近かった。途中で背景が二羽の鶴に変わったが、少しチープなものだった。そのまま松羽目でよかったのに。
『石切梶原』。前半の吉右衛門は、何となく世話っぽくて物足りなかった。後半、吉右衛門段四郎福助の3人になってからが、義太夫ものの面白さがでてきた。手水鉢を割る型は後ろ向き。刀を入れた後、ゆっくりと石が割れるのも型なのだろうか。あの恰幅の良かった段四郎が六郎太夫で、しかも似合っていたのが、少し悲しい。
『加賀鳶』幸四郎初役の道玄は、上出来だったと思う。これまで、富十郎猿之助の道玄を観ていて、それぞれ独特の味があって良かったが、幸四郎も彼らに伍して面白かった。富十郎が芸のうまさ、猿之助が道玄のいやらしさと滑稽味が特色だとすると、幸四郎は、悪の魅力があった。小悪党としての面白さは猿之助の方に分があり、それ故、猿之助の道玄は、「悪い奴だが憎めない」という、猿之助のもう一つのはまり役の「天下茶屋」の元右衛門に通じる役作りであったが、幸四郎の道玄は、「もともと悪い奴」。三津五郎にやりこめられる様などは、コミカルで面白いのだが、それでもこの道玄は、根が悪いどうしようもない奴である。こういう道玄もありだなあと思った次第。持ち役として、何度も演じてもらいたい。
まずかったのは、福助のお兼。福助が悪婆をやるというのは、非常に魅力的だと思うのだが、口を歪めて乱暴に話すのが悪婆ではないだろう。仮に勘九郎が道玄をやるとしたら、相方として最適だろうが、今のままなら、かなり下品な芝居となりそうだ。ああ、宗十郎のお兼が懐かしい。
『女伊達』芝翫は可愛かった。
夜の部。
『鳴神』三津五郎鳴神上人は、初役の時に評判となり、その芸域を広げた役でもあり、自分も初めて観るので期待していたのだが、そんなに良いわけではなかった。悪くはないが、平凡。團十郎のイメージが強いからかもしれないが、三津五郎の上人は、最初から雲の絶間姫を狙っているような気がしてならなかった。ただ、最後の飛び六法での引っ込みは、力感溢れた素晴らしいものだった。
一方、時蔵の雲の絶間姫は、この人の持ち役といっていいほどのもの。美しさはもちろん、鳴神上人に酒を勧める時の細心さや注連縄を切るまでの一連の動きに、この姫が朝廷の使命を帯びて来ているのだということを納得させるものがあった。
『土蜘』吉右衛門は、後シテの土蜘の精が、隈取りも栄え、迫力があった。段四郎の保昌は、声に張りがあり、立派。やはりこういう役をもっとやってもらいたい。
ところで、いつも思うことだが、土蜘が投げる蜘蛛の糸を、後見はあまりにも早く巻き取りすぎやしないか。ぱっと広がる糸を、搦めずに素早く巻き取るのが一つの見せ場になっているのはわかるが、投げた途端にすぐ片付けてしまっては、蜘蛛の糸が広がる余韻が全く味わえないと思うのだが、そう思うのは自分だけ?
『魚屋宗五郎』。昼の道玄が良かったので、夜の初役宗五郎も期待したのだが、こちらは期待外れに終わった。元々この芝居は、妹を殿様に殺されて、酔った勢いで屋敷に行くものの、家老に嗜められ、殿様に金をもらって、何となくめでたしめでたしという、現代人から観ると腑に落ちない部分が多いのだが、その不合理さを納得させるだけの持ち味が宗五郎にないと、たちまち芝居はつまらなくなると思う。幸四郎は合理的な役者なので、話の理不尽さが理不尽さのままで終わってしまい、観客は落ち着かない。多分それは、宗五郎の造形が中途半端に終わっているからだろう。そもそも最初から魚屋に見えなかった。女房おはまや三吉、父親とのアンサンブルも、他の世話物以上に大事なところだが、それも息が合っておらず、味の薄い芝居となっていた。世話物は難しいものだと、改めて感じる。
昼夜続けて観るのは疲れるものの、やはり歌舞伎は歌舞伎座で観るのが一番しっくりくるというのが、今日の結論。