6月コクーン歌舞伎『佐倉義民傳』

kenboutei2010-06-06

『佐倉義民伝』を初めて観たのは、平成10年の国立、吉右衛門の宗吾だったが、暗い芝居であまり好きになれなかった。それ以来印象が悪く、歌舞伎座でかかった時でも身を入れて観たことはなく、前回上演時は、ぐっすり眠っていた。
そんな芝居をコクーン歌舞伎で取り上げたのには驚いたものの、直前にNHKのニュースでラップを使うということを知って、何となく合点がいった。
百姓一揆が背景にあるこの芝居は、要するに反国家権力のプロテスト劇でもあり、そういう視点は、元の歌舞伎芝居にも埋め込まれているものである。串田和美世代には、むしろ親和性のあるストーリーなのかもしれない。
案の定、舞台は農民の群衆がラップで叫び回る中で進んで行く。
ラップを使い、主義主張のはっきりした芝居を見せる以上、今の政治についての姿勢をどう表現するのかということに自ずと関心がいく。
そして、自分の中では、木内宗吾=鳩山由紀夫となり、理不尽な年貢取り立てを強いられる百姓は、基地問題の渦中にある沖縄の住民に重なっていった。
一揆へとはやる農民の怒りを必死に抑え、お上への直訴で平和的に解決しようとする宗吾は、まさに鳩山的空想主義者のように振る舞う。実際に直訴の行動に移すところは鳩山と違うところだが、しかし、結局は磔の刑に処せられ、根本的な解決にはほど遠い結末となる。
さらに串田は、宗吾だけでなく子供の処刑まであえて舞台上で見せ、際限のない悲劇を強調する。
さすがにそれで終わるわけにはいかず、その後、この芝居が劇中劇であるという設定になり、観客から「これで終わりかよ、ひどい」と抗議を受け、笹野高史の座長が後日譚を説明することになる。あえてメタ芝居にする必要があったのかは疑問だが、そうでもしないと、収拾がつかなかったということなのかもしれない。
磔の宗吾(劇中劇なので宗吾役)は、本来それを勤めるはずの役者ではなく、宗吾ファン(?)の爺さんである勘三郎がこれまで演じていたというオチになり、更に、その役は勘三郎から狂言廻し的な役回りだった橋之助に、いつの間にか替わってしまう。
勘三郎橋之助が合わせ鏡的に一体となったこの演出は、まさに昨年の『桜姫』と同じであったが、その意図するところは、あまりよくわからなかった。(そもそも、普段の『佐倉義民伝』には出てこない、橋之助七之助の役が、劇中ではあまり効果的ではなかった。)
最後は、百姓たちのラップで終わる。
そのラップの台詞を聞いていると、沖縄の基地問題よりも、むしろ(芝居の土地柄だろうが)成田闘争を念頭に置いているようであったが、宗吾の物語が今にも繋がっているということを、必死に叫ぶことで終わるのであった。
これはどこかで観た情景だなあと思い返すと、学生時代、(もちろんラップではなかったが)出演者全員が最後に観客に向かって何やら絶叫して終わる舞台を、演劇部だった後輩のテント芝居で見たことがあり、それと終わり方が同じなのである。
テント芝居の時は、大いに辟易し、それ以来「演劇」と「演劇人」を敬遠していたのだが、歌舞伎と名のつく芝居で、また遭遇するとは思わなかった。
何を書いてるかわからなくなってきたが、要するに、「古いなあ」というのが、観終わった直後の正直な感想。
舞台はシンプルで、土を詰めた板枠の所作舞台が移動して場面転換となる。人形なども登場し、いつもの串田的演出ではあったが、題材のせいか、『桜姫』や他の串田歌舞伎で魅了された、舞台上の幻想的な美しさには、(音楽も含めて)乏しかった。
去年の現代版『桜姫』でセルゲイを演じていた白井晃が、自分の近くで観ていた。周囲の客のスタンディング・オベーションの中で、一人だけ座って拍手もせずに舞台を見つめていたのが、とても印象的であった。
・・・そういえば、もう鳩山由起夫は総理大臣ではないのだった。(現実の政治の方も、相変わらず三文芝居である。)