『麗人』

kenboutei2012-05-01

神保町シアターで『麗人』を観る。サイレント映画の特集で、ピアノ伴奏付き。そのせいか、料金は1,500円。
島津保次郎監督、栗島すみ子主演。昭和5年の作。
栗島すみ子は、男に無理矢理処女を奪われ、生まれた子供は田舎の兄に預け、娼婦的生活で生き抜きながら、男への復讐を秘かに思っている。一方、子供を預けられた田舎の兄は、自分の村がゴルフ場開発で土地を奪われることを防ごうとする農民たちのリーダー的存在になる。この土地開発の首謀者が実は栗島すみ子を犯した男で、兄と妹のそれぞれの物語は、やがて一つになっていくという、たっぷり2時間の、予想以上に重厚なドラマ。貞操観念の時代性や主人公の「生きよう」という動機の描写と対人関係の説明にやや不足の部分もあったが、そんなことは瑣末と思わせる力技の演出が冴え、とても面白く観ることができた。(隣の客は、いびきをかいて寝ていたが。)
特に興味を覚えたのは、ゴルフ場開発への村人の抵抗を通じて、資本主義社会における搾取・被搾取の対比を、かなり真っ正面から描いていたこと。開発会社の車を群衆で追い掛ける場面や、竹槍で会社の社員を刺した農民が、逃走したあげく、上半身裸でうどんを立ち食いして開き直る場面、また、土地を奪われ娘を芸者に売らざるを得なくなった父親が首つり自殺をしてしまうなど、ほとんどプロレタリア映画である。(この映画が制作された頃には、日本プロレタリア映画同盟というのがあったそうだが、島津監督との関係はよくわからない。)農民の抗議の場面になると、字幕の背景に渦巻きが表れ、より感情を煽ろうとしているのも、面白い。
島津監督の演出は、フラッシュバックあり、モブシーンあり(『戦艦ポチョムキン』を想起させる)と、なかなか斬新。栗島すみ子が男の部屋で二人きりとなり、友人が来るのをひたすら待つ場面では、何度も時計の秒針が映され、結局友人は現れず、男の寝室に連れ込まれた次の場面には鳥が出てくるという、いわゆる朝チュン手法も。開発会社とのやり取りに挫折した後、栗島すみ子の兄の顔に映し出される、馬車の車輪の影も印象深い。これまで島津保次郎監督にはあまり縁がなかったが、少し興味が沸いてきた。
主役の栗島すみ子も、とても良かった。
彼女が松竹の人気スターであったことは、ネットや書物等で知ってはいたものの、自分が観た『淑女は何を忘れたか』や『流れる』での栗島すみ子からは、全く想像がつかず、その事実にピンとこなかったのだが、今日、ようやく納得した。トーキーではキンキン声が鼻につくが、サイレントでは実にコケティッシュ。和装も良いが、長い髪を解いたままのネグリジェ姿や、乗馬のための服装などの洋装姿に、ファム・ファタール的魔性を感じた。小柄で寸胴な体型、切れ長の目と真一文字の薄い口元という顔の造形は、典型的な日本女性であるにもかかわらず、一瞬の動きの快活さ、豊かな感情表現は西洋的であり、リリアン・ギッシュに代表されるような、この頃のサイレント映画に必要な要素を備えていたということだろう。
栗島すみ子の不義の子供に高峰秀子
今日、しばらく足が遠ざかっていた神保町シアターに来たのも、実は6歳で出演しているこの高峰秀子が目的であった。自分の秀子映画観劇歴の中でも最年少映画となる。
男の子役で、名前も岩夫。
パーマの髪型が可愛い。馬車に積まれた藁の上にちょこんと乗っかっている場面で初登場するのだが、それだけで強烈な存在感。偶然に母親である栗島すみ子と再会するが、愛妾生活している妹を許せない兄に引き離されようとされ、必死に実の母親を庇う場面(この時点では母親であることを知らない)も見事な演技。(実の母親から引き離され、大人の間で取り合いになるという図式は、高峰秀子の実生活ともオーバーラップし、ちょっと複雑な気分にもなったが。)
この栗島すみ子と高峰秀子の共演が、その後の『流れる』につながっていると思うと、感慨も一入であった。
当時は冗長でフィルムの無駄遣いと不評であったそうだが、かえってその冗長と思われるショットこそ、映画的には面白い。
今日は、色々な発見があって、観に来て良かった。