『J・エドガー』

kenboutei2012-02-10

有楽町マリオン、ピカデリーでクリント・イーストウッドの新作『J・エドガー』を観る。
前作の『ヒア アフター』は、震災の影響で途中で上映取り止めとなってしまい、見逃していたので、イーストウッドの新作は『インビクタス』以来。
FBIの元長官、ジョン・エドガー・フーパーが、実はゲイだったというお話。
と言ってしまえば元も子もなく、イーストウッドの視点も創作意図も明らかに違うはずなのだが、観終わっての自分の受け止めを一言で表現すれば、そういうことになる。
初代FBI長官として半世紀に渡り君臨してきたエドガー・フーパーの生涯を描くこの作品は、おそらくアメリカの歴史をきちんと知らなければ、深い理解はできないだろう。彼の共産主義やギャングとの戦い、リンドバーグ愛児誘拐事件との関わりなどについて、アメリカ人なら誰もが共有している歴史的記憶が自分にもあれば、もっと面白く観ることができたかもしれない。(観ている間、津野海太郎の『ジェローム・ロビンスが死んだ』を思い出していた。)
抑えた画調、端正な美術、自然体でジャジーな音楽、時間を自由に行き来する演出などのイーストウッド調は健在で、その心地良さに身を委ねることはできた。
老けのメイクがあまりうまくなく(特にエドガーのパートナーの背の高い男)、かなり興をそがれたが、時間を自由に行き来する演出の中で、どの時代の話になっているかをメイクでわからせる手法だったのかもしれない(?)。
エドガー・フーパーの情報への執念は実に興味深い。パソコン、インターネット、ケータイやスマートフォン全盛の今の時代に彼が生きていれば何をするかは、容易に想像がつく。そして、それは恐らく、既に実行されていることだろう。盗聴当たり前のフーパーが、ニクソン大統領の時に死んでいるのも、何だか皮肉だ。
エドガー役はディカプリオ。エドガーの潔癖性やリンドバーグとの連想で、『アビエイター』を思い出した。また、ディカプリオのメイクの風貌(こちらは、老けメイクも割合自然であった。)は、オーソン・ウェルズっぽく、喋り方や仕種は、ケネディ大統領を想起させた。
エドガーの秘書はナオミ・ワッツ
ジンジャー・ロジャースの母親役にリー・トンプソンがクレジットされていた。(観ている時は気がつかなかった。)
それにしてもイーストウッドは、人間の心の闇や、社会の闇をえぐり出そうという意欲を、常に持ち続けている監督なのだなあ。