新橋8月 一部・二部

kenboutei2011-08-07

第一部
『花魁草』安政の大地震を逃げ延びた役者と女郎が、田舎で一緒に暮らすが、江戸の芝居復興に伴い、役者は江戸に戻り、女郎は身を引く。
今回の東日本大震災に関して、震災後の復興という意味でこの芝居を選んだとのことだが、実際に観てみると、大地震はきっかけに過ぎず、本来の主題は、男への嫉妬で殺人を犯した過去を持つ女が、その母親もまた同じ理由での殺人者だったという血の因縁に悩む話。役者の出世のために女が身を引くという筋立も、『残菊物語』の亜流。こんな話を今回の大震災と結びつけるのは、却って不謹慎であると誹られるのではないかと、ふと余計な心配もしてしまった。また、殺人まで犯してしまう程の恋の執着を持つ女の血の因縁というのも、累伝説を例に出して話を進めてはいたものの、どことなく消化不良感が残った。(これは脚本そのものの問題かもしれないが。)
序幕、中川の土手の場、地震直後の夜明けの場面が良い。朝焼けの中、切り絵風に人物が浮かび、動き出す。徐々に明るくなり、歌江、寿鴻などの老脇役が、短いが味わい深い演技を見せて、自然に去って行く。今月は全体的に脇役がしっかり活躍していたが、特にこの序幕は一番印象に残った。
この地震で偶然出会った役者と女郎に獅童福助。二人を栃木まで自前の舟で運んでいく百姓が勘太郎
獅童は、妙に現代劇的な役作り(この芝居の場合だと、さしずめ「若手役者で心優しい青年」という設定か)をするため、台詞が歌舞伎の型に嵌まらず、とても違和感があった。北條秀司の新歌舞伎といえども、それなりの台詞の言い方はあるはず。特に相手の台詞に返事をしたりするような時、あまりにもリアルな普通の会話になってしまうのが、本当に困った。こういう勘違いは、最近の若手役者ばかりでなく、この芝居で共演している福助にも時折見られる傾向なので、これからの歌舞伎の行く末を思うと暗い気持ちになる。
福助の女郎は、まあこういう役はぴったりではあるのだが、北條秀司が梅幸に当てて書いたということを考えると、梅幸がこんな軽い感じのする女だったのだろうかという疑問は残った。最後の場面で、立派な役者となって栃木に船乗り混みする獅童の姿を、福助は橋の上から群衆に混じって観ている。普通、こういうシチュエーション(身を引いた女が恋人の活躍を陰からそっと眺める)では、目立たないようにするものだが、一人だけ手拭を頭に被せて背中を見せているのが福助だと容易にわかり、注視していると、他の群衆と一緒になって、獅童に関する噂話に耳を傾け、獅童の乗った舟に手を振ったりしていて、とても身を引いた女には見えなかった。最後は『一本刀土俵入』のお蔦と駒形茂兵衛が合体したような一人舞台となってしまい、初演時の梅幸もこうだったのだろうかと、過去に観た人に聴いてみたい気持ちになった。
扇雀獅童の贔屓の客で、獅童の復帰のきっかけを作る。当然女形だったが、少し目が吊り上がってきて、何だか父親や祖父に似ていると思った。今までは母親似という印象だったので、少し驚いた。
『櫓のお七』七之助。初役らしい。人形振りのところは、昨日の深酒が残っていたせいか、殆ど寝ていて、気がつくと最後の火の見櫓の立ち回りとなっていた。ただ、その立ち回りも、何だかまだ人形振りで動いているように錯覚してしまう、八百屋お七だった。観客サービスの舞台降りは、客席を一周せず、逆七三の横の通路を半分まで行って戻り、前の通路を通って花道へ上がっただけであった。演舞場だと仕方がないか。

第二部
『東雲烏恋真似琴』新作歌舞伎。「あけがらすこいのまねごと」と読ませる。「真似琴」は、「マネキン」にも掛けてあるらしい。
G2(これはジーツーと読むのだと思う、たぶん。)という作者はまるで知らなかったのだが、過去にも演舞場で橋之助主演の芝居を作っているそうだ。
堅物の武士が、ふとしたはずみで結婚することになった女を殺されるのだが、それを信じず、女にそっくりの人形を生きているものと思い込み、人形との新生活を始め、家の崩壊を怖れる周囲も、それに付き合うはめになるという、一種の不条理喜劇。
人形を実在の人間のように振る舞うことで起こるドタバタは、他の喜劇でも観たような記憶があるが、G2という作者は、単なる喜劇だけを求めていたのではないのかもしれない。しかし、そうだとすると、深堀が足りないような気がした。
今起こっていることは現実なのか、或いは、信じていると思っていることが本当に正しいのか、或いは、自分は自分ではないのではないか、或いは、生きていると思っていること自体が間違いではないか、或いは、相手を糾弾する内容は自分にはね返ることではないか、などなど、現実や信念、自己や生への懐疑や主客の逆転という問いかけを芝居の中に織り込むのは、現代劇の定番なのだろう。『大江戸りびんぐでっど』然り、『野田版鼠小僧』然り。
今日の『真似琴』も同じで、むしろそういう現実や存在への懐疑を、人形を出すことで、もっとはっきりさせており、そういう意味では、定番のわかりやすさがより強い作品となっている。
構成的には割合にしっかりしていて、破綻なく進んだことは、最近の新作歌舞伎の中では安定感があったようにも思う。ただ、人形の妻(花魁の小夜)の心の声が、突然具体的に橋之助に話しかけてくるところは、疑問がある。この場だけは、小夜役だった福助が生身で橋之助に語り掛ける趣向となっているのだが、邪悪な唆しとなっていて、小夜がここまで悪心であったことに、強い違和感を持った。これをきっかけに、芝居は動き出すので、この悪心は必要ではあるのだが、そうであるなら、もっときちんとした伏線が必要だったように思う。
また、福助が人形身で引っ込んで行くラストも、一旦解決した物語に余計な余韻を残してしまい、歌舞伎的な終わり方ではなかった。そして、何より、この時の福助の人形身の表情が、全然美しくなく、あまり拍手で送る気分になれなかった。
橋之助の堅物の武士は、作者が彼に当てて書いたというだけに、よく似合っていたと思うし、大きな芝居の主役をやってもあまり印象に残らない橋之助にしては、しっかりと記憶に残る役であったと思う。(ただ、この役のニンは、本当は三津五郎の方があるのではないかな。)
獅童が、左甚五郎の末裔の人形師。もっと目立つ役かと思ったらそうでもなかった。相変わらず現代劇的振る舞いだったが、そもそも新作歌舞伎なので、これはこれで良い。
他に扇雀勘太郎七之助。萬次郎の母親が、芝居を締める。橘太郎のそば屋が大活躍。
黒地に装飾を施した木枠のような舞台装置が印象的。廻り舞台で場面転換する度に、木箱の中での芝居というイメージを作り出していた。この舞台装置は、幕開き前から観客の眼前にあって驚いたが、終わる時は、いつもの歌舞伎のように定式幕で閉じられた。福助の引っ込みは歌舞伎的終わり方ではなかったが、最後の最後は歌舞伎的で終わらざるを得なかったところは皮肉である。
『魂まつり』芝翫以下、福家族の踊り。九條武子の舞踊詩『四季』のうちの夏の部分とのこと。背景は京の大文字の送り火芝翫は、負担軽減のためか、立役。もはや台詞もない。反対に、橋之助が久しぶりの女形で登場。宜生の女形が、母親似の憂い顔になっていたのが、印象に残った。