『蜂の巣の子供たち』

kenboutei2010-08-01

神保町シアターの子供特集。監督の清水宏に惹かれて観に行く。(そういえば、DVDボックスの方は、まだ一本も観ていないなあ。)
敗戦で引き上げてきた一人の復員兵と、戦災浮浪児たちとの交流を描く、ロードムービー
映画の冒頭、いきなり、「この子たちに見覚えはありませんか」というメッセージが掲げられる。この映画は、実際の浮浪児を清水宏が引き取って、その子らを使って撮影したものだという。
映画の中の子供たちは、みな泥だらけ、よれよれの着の身着のままで、顔や頭もいびつで、まさにジャガイモのよう。しかし、その存在感、逞しさは、圧倒的である。現代の子供たちが、仮に同じ衣装、メイクをしたとしても、決して、この映画の中の子供たちのようにはならないだろう。その日その日の暮らしのため、大人に負けない程したたかな行動をとるが、そこには、ピュアな「生」があった。
浮浪児たちは、闇商売で生きる片足の男の手下となっていたのだが、やがて復員兵と行動をともにするうちに、真面目に働き、生活の糧を得るという、真っ当な生き方に目覚めて行く。
ストーリーは創作だが、実際の戦災孤児を保護して共に暮らすという点では、清水宏監督自身による半ドキュメンタリー映画でもある。
出演者は子供だけでなく、大人もみな素人で、その素人っぽさが良い。映画の中の台詞を懸命に喋るのだが、当然ながら、役者のようにはうまくいかない。ちょっと大人びた台詞を素人の子供が、説教的な台詞を素人の復員兵が話すことによって生じる、不思議な会話空間が、とても面白かった。
ぎこちなく話される台詞が、そのぎこちなさによって、逆に明確に伝わってきたのである。これは、ある意味で、小津映画における会話と、とても似ていると思った。小津の映画では、役者は役者自身の個性で台詞を言うことを徹底的に禁じられ、いわゆる小津調の台詞廻しに統一されている。それは決して素人っぽいものではないが、どこか読み上げているような調子が、今日の映画の子供らの台詞と、自分の中では重なった。そして、「演技」とは何なのかということを、改めて考えさせられたのであった。
当局から逃げ回ったり、丸太を運んだり、塩田で働いたり、こっそり煙草を吸ったり、地元の少年野球に加わろうとして、その身なりによって怖れられたりと、子供たちは、戦災後の焼け野原や街の廃墟、田舎の自然の中を、活き活きと動き回り、その行動を観ているだけで、既に失われてしまって久しい、日本の原風景のようなものを感じ、楽しくなった。
敗戦後の日本の、破壊され、焼き尽くされた後に残った、高い空と、遠い地平線を、カメラは実に瑞々しく捉えていたのも、印象的である。(「国破れて山河あり」とはよく言ったものだ。)
ひ弱な「よし坊」に海を見せようと、関西弁で鼻の穴の大きさが左右で極端に違う子供がよし坊を背負って、山を登る場面が圧巻かつ感動的。
片足の男(本当に片足ながら、実に機敏に動く)と復員兵の格闘場面は、鉄骨などの隙間から俯瞰で撮り、実際の殴り合いをあえて見せずに表現するなど、どことなくサイレント映画の匂いがあった。
最後は、復員兵が育った感化院に、子供たちともども(片足の男も含め)歓迎されて終わるという、都合の良いハッピーエンドだが、それがむしろ心地良い。