『セーラー服と機関銃』

kenboutei2010-03-27

神保町シアター。今回の乙女映画特集の、個人的には最大の目玉、『セーラー服と機関銃』を観る。
薬師丸ひろ子は、自分と同年代。そして高校生の時のあのブームに、自分も嵌ってしまった一人である。アイドルなどには全く興味がなかったのに、気がつくと角川雑誌『バラエティ』を購読し、三部作の写真集もしっかり買っていた。(友達からは「初恋」とからかわれた。)
この映画も、当時は繰り返し観た。同じ映画を何度も観ることはあまりなかった自分にとっては、『E.T.』と並んで、最も観る回数の多かった映画だったと思う。(昔の映画館は、入れ替え制でもなかったしね。)
だから、殆どの場面は時系列で覚えていると自負していたのだが、実際に今日観てみると、冒頭の雨の道路を車が走るシーンから、すっかり忘れていて(最初は、薬師丸ひろ子がブリッジしながら『カスバの女』を唄っているのを空撮する場面だと思い込んでいた。)、少なからずショックであった。
他にも忘れていたショットは結構あったが、一方で、登場人物の台詞は、次はこういう台詞になる、とすぐに記憶が甦ってきた。
映画の記憶と共に、当時の自分の思いも甦ってきて、それだけでもノスタルジーに耽ってしまう。
何より一番嬉しかったのは、薬師丸ひろ子の魅力が、今観ても全く色褪せていなかったことだ。(『ダウンタウン・ヒーローズ』を最後に、彼女の映画は観ていなかった。だから、スクリーンではおよそ20年振りの再会なのであった。)
カリメロ頭と称された、ボーイッシュなショートカットで、溌剌と動き回る。部屋の中をハイハイで徘徊し、ソファ越しにでんぐり返る。いとも簡単にブリッジし、しなやかに反り返った身体を、脚力だけで元に戻す。
彼女の発する言葉にも、胸をときめかされた。やくざ相手には母親や教師のような台詞で母性を感じさせ、男の同級生には「おたく」とか「ユー達」という、中性的な言葉を使う。薬師丸ひろ子の言葉は、相手との関係性を強く意識させ、それは観ているこちらの方にも、一種の照れを交えて、彼女をより意識せざるを得ない言葉なのであった。何と言っても、一語一語が、ピュアということに尽きる。(やっぱり好きだったんだなあ・・・。)
それにしても、相米慎二監督は、薬師丸ひろ子を、いいようにいじっている(というか、いじめている)。今観ると、敵対するやくざの組に単身乗り込んだからといって、薬師丸ひろ子をクレーンで吊り上げ、セメントに沈める必然性は、殆どない。アイドル映画への抵抗というか、にっかつロマンポルノで好き勝手に演出するような、映画作家としての反骨性が随所にあり、それを知ってか知らずか(多分知らないと思う)、薬師丸ひろ子は、そうした監督の理不尽な要求に、体当たりでぶつかって行くのである。監督と役者の衝突・葛藤のエネルギーが、独特の長廻し演出によって、スクリーンからストレートに放射され、触れると火傷するような、熱気ある映画となった。
夜の公園から、林家しん平とバイクに乗って疾走するまでの長廻しは、今観ても本当に凄い。最後の方は、カメラが上下にぶれまくり、二人の笑い声とネオンの光しか認識できず、場面の完成度としてはどうかと思うし、また、そもそもこのシーン自体、セメント漬けと同じく必然性はないにも拘らず、絶対に忘れられない名シーンになっているのは、長廻しによる過度な緊張が引き起こす、「映画の熱」によるものだと思う。
薬師丸ひろ子相米慎二赤川次郎角川映画・・・。「熱」のあった、あの時代でしか絶対撮れない映画であり、だからこそ、今も新鮮に観ることができたのだろう。
最後の機関銃乱射の後、ローション瓶の破片で薬師丸ひろ子の向かって右頬に傷がつき、血が流れてくる様子は、スローモーションのカットだけに、改めてそのリアリティを実感した。(一方で、その後に大門正明が土手っ腹を拳銃で撃ち抜かれる場面は、血しぶきさえ出ない、ただの演技であるのも、面白い。)
目高組の先代組長で、冒頭に跡目相続の話をする場面だけに出てくるのが、藤原釜足。最近は、成瀬映画で若い時の姿ばかり観ていたので、「すっかり年をとって」と妙な感覚になってしまった。本当は逆なのだが。(そういえば、この映画には成瀬監督の好きなチンドン屋の場面も挿入されていた。相米監督と成瀬の関係性は、どうなのだろうか。)
星泉が生まれて初めて口づけを捧げた「中年のオジン」渡瀬恒彦は、調べてみると当時37歳。今の自分の方が、もっと中年のオジンであることに、実はショックを受けている。
観る直前まで聴いていたiPod(シャッフル機能)で、『セーラー服と機関銃』がかかったのは、奇跡的な偶然。(ただし、長澤まさみヴァージョンであったが。)
自分の意気込みとは裏腹に、観客は半分もいなかったなあ。

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