巣林舎『平家女護島』

kenboutei2009-09-12

昨日、会社帰りに新宿紀伊国屋ホールで、巣林舎の『平家女護島』を観る。
鳥越文蔵氏が企画・監修で、氏の近松戯曲研究成果を、鈴木正光氏が現代に生かした形で新たに演出、舞台化。今回が7回目となる定評あるものだが、自分は初鑑賞。(紀伊国屋ホール自体も初めて入る。ギシギシ軋む座席や、壁の装飾など時代が感じられて良い雰囲気。)
結論から言うと、観て良かった。
これまで「俊寛」(「鬼界ヶ嶋の場」)しか知らなかった部分(過去に国立での通しを観たことがあるが、もう忘れてしまっている。)が、全体を通じて観ることで、その骨格がはっきり理解できた。
上演前に、渡辺保氏が解説してくれた(鳥越氏の替わりだったそう)のだが、この作品は、「家族の物語」であると言っていた。
全くその通りで、これは、清盛と時子、俊寛と東屋、宗清と糸女、義朝と常盤御前という4組の夫婦とその子供たちの、家族愛の物語だったのである。(実際はそのように演出者が近松の戯曲を捉えたということだろうが。)
清盛夫婦は、清盛の横暴や時子を中心に女性が司っている政治運営などで衝突しながらも、天皇に嫁がせた娘に子供ができることを一心に願い、それが実現すると二人で手を取り合って喜び涙する。
常盤御前は、清盛の愛妾となり、周囲からは蔑ませれる屈辱的な立場であっても、髑髏となった義朝を胸に抱き、息子である牛若丸と共に、源氏再興の機を狙っている。
宗清は、清盛から命じられた常盤御前の詮議に巻き込まれるのを避けるため、妻の糸女を離縁するが、逆に糸女は陰腹を切って、夫の危急を救おうとする。
平清盛が権力を掌握していく過程で、彼をとりまく人々の人間関係とその憎愛が見事に描かれていて、それを二時間ちょっとの時間で、シンプルだが品の良い舞台装置と演出で手際良く仕立てているのに、とても感心した。
そして、この中で出色なのは、やはり俊寛と東屋の夫婦関係を描く件で、鹿ヶ谷の謀議がバレて、俊寛は拘束され遠島、妻の東屋は、清盛の妾となることを迫られるが拒絶して自害する。俊寛と別れる際に、川に紅が流れたら自分は助かって帰りを待っていると告げる東屋だが、実はそう言いながら流れた紅は、自らの死の血潮であり、それを知らない俊寛は、その紅に希望を抱きながら、島流しを受け入れるのであった。(この「紅流し」は、同じ近松の『国性爺合戦』から取り入れたものだろうか? それとも、オリジナルの近松の戯曲にもあったのだろうか?)
従って、この後に続く「鬼界ヶ嶋」は、東屋が死んだと知って自ら島に残る俊寛の決意が、実によく理解できる。巣林舎の舞台は、義太夫はないので、もちろん「思い切っても凡夫心」も出てこない。最後に岩の上から「おーい」と呼びかけることもない。ただ俊寛は、京での別れの際に東屋から形見にもらった鏡を、去り行く船に向かってかざすだけであるのだが、そこに込められた妻への万感の思いが、優れた歌舞伎役者での表現と同じように、観ている者を感動させた。
現代語を使っているとはいえ、近松の台詞は極力生かしているのも、俊寛の場を観ていると気づかされる。瀬尾と丹左衛門は、歌舞伎だと赤っ面と白塗りで、悪と善の役割がはっきりしているのだが、ここでは共に単なる使者で、丹左衛門は気持ちの良い裁き役ではなく、成り行きに任せてその場を納めるだけの小役人に過ぎなかったのも面白かった。20分程度で、この場を描ききるのも見事である。
知っている役者が殆どいない中で、東屋役の真行寺君枝が、ひと際目立っていた。小柄で痩せているが、美貌は昔のまま。自害に向けて一人苦悩する姿は、頬のこけ具合に陰ができて、能面か文楽人形の頭のようでもあった。
清盛役の人は、かなり太っていて、平家物語の時代としては最初違和感があったが、清盛の専制君主ぶりを演じていく中で、それは解消されていった。
プログラムには、巣林舎の文字の横に、「Real Chikamatsu」と書いてある。なるほど。