長十郎自伝『ふりかえって前へ進む』

読了。

少し前に、歌舞伎座近くの古書店で見つけ、慌てて購入したもの。
河原崎長十郎による自伝であり、書き上げた直後の昭和56年9月に、長十郎は急逝。あとがきは、夫人が書き、本は12月に出版されている。長十郎の絶筆であり、一種の遺言といってもよい、貴重な本であった。
幼少の頃、左團次との関係、前進座創立、そして除名事件、中国での『屈原』上演等の思い出を綴っており、特に注目していた前進座との関係についても、割合直裁に書いている。
巻末には長十郎の年譜もついていて、この本と「舞曲扇林」があれば、長十郎の前進座以降の足跡は大体網羅できるといえるだろう。(もちろん、舞台そのものを観ていないので、いつまでたっても長十郎を知ったことにはならないが。)
驚いたのは、長十郎が前進座除名以降も、吉祥寺にそのまま住んでいたこと。古い歌舞伎年鑑に載っている住所も、除名前後で変わっていなかったので、以前から不思議に思っていたのだが、長十郎一家はあえてそうしていたようである。
しづ江夫人のあとがきにも、以下のような記述があった。

長十郎が、除名騒ぎで、中国から帰国いたしまして、二、三年たった時でしたか、突如、西庭の竹薮から糞尿があふれ出ました。あわてて調べましたら、汚水処理の土管が、前進座側から一方的に閉ざされていて、行き場を失いました糞尿が、溜りにたまたって、地上に噴出したのでしたが、長十郎は、「竹の肥やしになるから、いいじゃないか」と取りあいませんでした。

前進座との決別以降も、決別した相手と隣り合って暮らしていたとは、ちょっと想像を絶するものがある。巻頭写真で、前進座前をしづ江夫人と一緒に颯爽と歩く写真があるのだが、そうしたことを考えて眺めると、改めて強烈な印象を与える写真である。しづ江夫人も同志として長十郎と共に闘っていたことが、この写真やあとがきなどで読み取れる。(むしろしづ江夫人の方が、長十郎よりも思想的により過激だったのではないかという気がしてならない。)
前進座絡みの記述をいくつか引用しておく。

とにかく全員七十五人入党してしまいました(昭和二十四年)。党はおおいに宣伝したので、世間ではこれを「前進座の集団入党」と呼び、賛否両論が涌き上がりました。いずれにせよ、入党離党は個人の問題ですから、運動も何もわからない雑多な思想の人々が集団で入党するということは正しくありません、まちがいでした。(P75)

そうこうしているうちに、翫右衛門は、中国に三年間いても、芝居をしなければしようがない、早く帰った方がいいと、(中略)帰国することになりました。前進座としては、「いま、せっかくうまくいってんのに、また帰ってきたらたいへんなことになる、もう少しむこうにいてもらったほうがいい」という人が大半だったんですけれども、共産党の人が「帰ることはきまった」「なんとか受け入れてくれ」というので帰ってきました。しばらくは人が変わったように穏やかで、内輪で、物しずかでしたが、二、三ヵ月すると、すっかりもとに戻ってしまい、布施辰治先生は、「思想は変わるものだが、性格はなかなか変わるものではない」と、当時いわれました。(P76〜77)

この間に、中国と仲のよかった日共が、だんだん中国に背をむける党に変わっていったのです。(中略)わたしは病床で、前進座の座員諸君がただ盲目的に反中国政策に追従していってはいけない、なぜ反中国に転じていったかということをよく考えてほしいと念じました。しかし、なにしろ病気で寝ている身のことですから、なかなか思うようになりません。わたしはいろいろ考えつくした末、そのように変わった党にいることはゆるされない、党から離れ、前進座前進座として創立以来の方針をふまえて、良い進歩的な演劇を創り、大衆に奉仕すべきであると考え、離党を決意し、離党届を党に提出しました。(P85〜P86)

前進座側は、その頃、よそに前進座が家を買ってわたしたちに貸すから引っ越すようにと、ずんずん追いだしの準備をすすめていましたが、(中略)法律家の黒田寿男先生が、「あなたは住む権利がある、しかし家賃は座の方で受けとらないでしょうから、その場合は法務局へ供託するように」といってくださいました。その後、やはり家賃は受けとらないというので、では法務局へ供託しますと、いまだに法務局へ供託しております。こうして、その日以来、わたしはこの家に陣どり、仕事の根拠地にしてきました。雑誌『舞曲扇林』もここで創刊したのです。
その間、翫右衛門、国太郎に会って、除名に至る経緯をきく必要があると思い、帰国したあくる日から面会を申しこみました。(中略)翫右衛門に一度会ったのは、家の前にある銭湯でした。銭湯に入っていくと、翫右衛門がちょうどあがるところでばったりぶつかってしまいました。
「やあ、ちょうどよいところで会った。君に話をきく必要があると思っているんだけれども、そっちが会わない会わないでおくれている。話がしたいんだ!」といったところが、翫右衛門は、「いやあ、もう、いい、そんな必要はないんだ、もうその必要はない」「いや、君は必要なくとも、僕の方じゃ必要あるんだ」「いや、まあ、僕は失礼するから」っていって、こそこそと出ていってしまいました。その後は、その銭湯へは翫右衛門は姿を現さなくなったのです。今日まで一度も言葉を交していません。(P91〜92)

この他にも、父親の死後、もしかしたら六代目菊五郎の方に預けられる可能性もあったことや、歴史的な訪ソ公演時のエピソードなど、読み応えがあった。
翫右衛門の自伝と読み比べると、ますます興味深い。

(翫右衛門の自伝は昭和55年。その一年後に書かれた長十郎の自伝は、多分にこれを意識していたのだろう。)