11月新橋演舞場花形歌舞伎・夜の部

kenboutei2006-11-23

『時今也桔梗旗揚』いわゆる「馬盥の光秀」。自分は初見。松緑の光秀、海老蔵の春長。
「本能寺」は平凡。松緑海老蔵の対決がつまらないのは、役者の若さ故仕方ないところか。海老蔵は、信長役がすっかり板についてはいるが、仰け反って歩く姿はぞんざいで、暴君の雰囲気はあるものの、全く歌舞伎らしからぬ。光秀が馬盥に口をつけたところで、春長が台詞を言い出すのは、光秀役者の芝居を邪魔しているように見えたのだが、もともとそういう演出なのだろうか。
愛宕山」になると少し面白くなったのは、芝雀、寿猿、亀蔵ら役者が揃い、時代物の雰囲気が出たからだろう。特に亀蔵の但馬守は、ほんの少しの場面ではあったが、その顔が上方の錦絵で、出ただけで場の空気が変わった。
他に、松也の桔梗が、二場を通じて、良い出来であった。
松緑の光秀、最後の大笑いを活かすには、もっと大時代な芝居ができれば良いのだが。
船弁慶菊之助。上手から出て来た時のその顔は、本当に能面の小面か泥眼をつけているのかと思う程、綺麗なものであった。今日は喉をやられていたのか風邪なのか、しゃがれ声であったのが残念。舞い自体もやや腰高で、今ひとつといったところ。後シテの知盛の霊は、女形のため迫力にはかけるが、この優の持ち味である端正な動き・形は堪能できた。が、菊之助の場合、やはり前シテの静の方が魅力的である。
『四の切』海老蔵初役の忠信。音羽屋型でなく、澤瀉屋型で宙乗りもやるというのを知って驚いたが、葵太夫のホームページでその背景がわかった。
海老蔵の忠信、本物の忠信の方は、義経から身に覚えのないことを聞かされる度に、目をパチクリさせるのが、非常にうるさい。もはやいつものことであるが、顔で表情を作りすぎる。しかし、全体にはすっきりとした忠信で、最後の引っ込みも、亀井と駿河を引き連れ、型を作りながら移動する姿は見事な絵になっており、面白いものがあった。
狐忠信の方は、狐言葉がまだまだ未熟。松緑が初役で演じた時も、狐言葉には苦労しており、義太夫節独特の語り方は、そう簡単に習得できるものではないが(猿之助のも彼自身が語り易いようにかなり崩している。)、海老蔵のそれは、猿之助の口調の物真似から入っているので、義太夫節の面影すらなく、全くもって滑稽に聞こえる。腹から語ろうとしないで、そーっと優しく語ろうとするのは、そもそも狐言葉の何たるかを知らない証拠である。親を思う子狐の気持ちを懸命に表そうとしているのはよくわかるが、その気持ちとそれを表現する台詞(しかも義太夫狂言としての台詞)が、まだ一体化されていないのは、偏に義太夫を無視しているからである。海老蔵には義太夫節の何たるかを早く知ってほしいと思う。
とはいうものの、この狐忠信は、見事に猿之助の雰囲気を掴んでいると思う。猿之助の型を完璧になぞっている右近の忠信よりも、猿之助に似ていると思わせるものがある。勧進帳の弁慶でも、昔の弁慶役者を思い起こさせる海老蔵は、ある意味、物真似の天才ではなかろうか。(もちろん、物真似に留まらない魅力もあってのことだが。)
團十郎国立劇場の鑑賞教室で初役で演じた狐忠信は、親を失った子の憂いを感じさせるものであった。菊五郎の狐忠信は、どこかメルヘンチックな雰囲気を漂わせていた。
今回の海老蔵の狐忠信は、一言で言えば、「無邪気な子供」。要するに、海老蔵そのもののように見えたのだが、実は猿之助についても、そのような部分があった。特に、初音の鼓をもらって喜びはしゃぐ様は、海老蔵猿之助も、実に活き活きしているのである。
そして宙乗り海老蔵猿之助よりも一層嬉しそうに飛んで行った。
太夫のHPによると、猿之助海老蔵の忠信を観て、「跡継ぎ」と呟いたそうだが、未熟な部分は多々あるにせよ、猿之助の「四の切」を再現していたことは間違いないと同意できる。(別に跡継ぎになる必要はないとは思うが。)
段治郎の義経と、笑三郎の静が、ともにしっかりした芝居で感心。特に笑三郎は、この場の静としては色っぽ過ぎるが、美しさに見とれた。
とにもかくにも、ユニークな「四の切」を観せてもらった。